彼女の福音
弐 ― The Day After ―
カシャア、という音とともに、カーテンが開かれた。鼻を、味噌の独特のにおいがくすぐる。
「起きろ、杏。朝だぞ」
予期していなかった声が聞こえた。あれ。
「智代?」
「起きたか?朝ごはんは食べられそうか?一応杏の分も作っておいたんだが」
「あれ?あたし何でここに……っつ!」
急に頭痛がした。
「覚えていない……か。まあ酔っていたからな。水でも持ってこようか?」
「え、ええ、お願い」
痛む頭を押さえながら、辺りを見回す。どうも本当に岡崎家に泊めてもらったようだ。
「まずはともあれ、何があったのか解らないけどごめんね。迷惑だったでしょ」
智代のくれた水を一気に飲み干すと、あたしは頭を下げた。
「迷惑じゃなかったぞ。ただ……まあ驚いただけだ」
「あたしどうやってここに来たのかな。全然覚えがないんだけど」
「……春原が連れてきた」
は?
今何つった?
智代が顔をそむけ、あたしとの視線を外した。
「昨日の夜、急に春原から電話があってな。『杏が酔い潰れて到底家に帰れそうもないんだけど、泊めてやってくれるかな』と言ってきた。で、まあ布団敷いて用意しておいたら、一時頃に眠ってるお前をここに置いていったんだ」
「……あたし何やってるんだろ」
「すまないが、私ももうそろそろ仕事に行かなくてはならないんだ。昨日着ていた服は一応クリーニングに出したから、私の私服でよければ着てもらって構わない。それと、仕事場に連絡しておいた方がいいだろう」
「何から何まで、本当にごめんね。この借り、絶対に返すから」
「いいんだ。私と杏は親友じゃないか」
笑いながら智代は出て行った。
はぁ、ほんとあたし何やってるんだろ。
結局あたしは風邪をひいたと言ってその日は休み、後輩にボタンの面倒も頼んだ。保育園の古株だからあまり抵抗なくオーケーされたけど、本当はこういうのは好きじゃない。
「でも、陽平があたしと飲んでたってわけ?変よね、それ」
首をかしげながら、智代が畳んでおいてくれた私服を着てみる。着て見て即後悔した。
「……はぁ……」
スカートなら問題ないのだ。丈の長い茶色のスカートは、なるほど智代のように少し大人びた女性にはぴったりだった。問題はシャツだった。V字の青いシャツなのだが、どうもだぶついて見える。
「女は胸じゃないって言ってもね……」
もしかしてあたしに男が寄り付かないのって、これが原因かな?うわ、嫌だなぁ。
「まあ、そんな男こっちから狙い下げだけどね」
せっかく貸してくれたシャツを着ながら、あたしは岡崎家を出た。
昼頃、陽平から電話がきた。
『もしもし、杏?』
「陽平?」
『あ、起きてた?大丈夫かなって思って……』
「ちょっと待って。まず最初に聞いておきたいんだけど、あんたあたしに何かしなかったでしょうね?」
『失礼な!僕はこれでも紳士なんだぜ?酔いつぶれた友達に手を出すと思うかい?』
「思うし、まずあんたとあたしって友達じゃないから。あんたがあたしの子分且つ下僕。わかった?それともそのポケットモンキーも憐れんで世の中の不条理を嘆くようなちっぽけな脳容量じゃわからない?」
『相変わらずひどいこと言いますねぇえええ!!』
「いい?もしあんたがあたしに何かしてたら、あたし椋に頼んであんたを呪ってもらうから。あと出会い次第、あんたの顔の半分は確実にイソップ物語で吹き飛ばしてあげるから」
ひぃぃいいいい、と情けない声が聞こえた。
「……それよりもあたし、昨日変なこと言わなかったでしょうね?」
『変なこと?』
「例えば、その、何よ、朋也と智代のこととか」
『いや言ってたけど?』
うわ最悪。
「何て……言ってたの?まさか」
『朋也のことが好きだったってのは、もう本人以外は知ってたよ?ただまあ、昨日はそのあと智代ちゃんのことも好きだから二人で結婚してめでたしめでたし、って言ってた』
無性に陽平を殺した後首を吊りたくなった。
『でもさ』
「何よ」
『何つーかさ、すげえ、って思った。杏って強いんだなって思ったよ。だってさ、あの二人をそういう風に認められるのって、できるもんじゃないよ』
「うっさいわね」
『いや本当。だからさ、元気だしなよ』
「……あんたに励まされると余計へこむのよねえ」
『ひどっ!』
「ねえ、そっちに向かって本投げていいかしら?ここにいいサイズの漢字辞典があるのよね」
投げたらピンポイントで陽平の頭に陥没させる自信はあった。
『ひぃいいいいい!ややややめてくれというか、僕が何をしたぁ!』
「いや別に何も」
『あんた鬼っすねぇ!あ、あと』
「何よ」
『早めにスクーター取りにいかないと料金違反でレッカーされちゃうんじゃない?』
「そういうことは早く言え!!」
結局投げてしまった。数秒後に遠く彼方で悲鳴らしいものが聞こえた気がするけど、気のせいよね。っていうか、それよりもあたしのスクーター!!
「で結局レッカーされたのか?」
「いいえ、何とかなったわ。ぎりぎりだったけどね」
日曜日の午後、あたしは智代と一緒に近くの喫茶店でお茶を飲んでいた。朋也も呼びたかったけど、急用ができたらしい。ちなみにあの一件のお詫びに、というわけだから、あたしの奢りだ。本当に気にしなくてもいいのに、智代は悪いと言ってここの自慢のモンブランは注文していない。
「しかしとどのつまりは何もなかったわけか」
「そうなのよねぇ。あ〜ほっとした」
「よりにもよって春原と一緒に飲んでいたとはな」
「ちょっと言わないでよ、気持ち悪くなるじゃない」
「いーややめない。そうだな、今夜あたり古河さんと有紀寧さんと、そうだな美佐枝さんにも言っておこう。ああ何、心配するな。脚色は百二十五%ぐらいにしておいてやろう」
ふふふ、と不敵に笑う智代。お願い、冗談よね?
「しかしまぁ、少しは春原を見直せたかな」
紅茶を静かに飲むと、智代が小さく笑った。
「え?」
「そこで杏を酔い潰れたまま置いて行ったりしなかったからな。少しは男らしい、というわけか」
「そういうものかな。まあ、そうね、少しは認めてやらなきゃいけないわね」
「だろう?私なんかは、最初の間ずっと女だと認めて……認めて……」
ずうーん、と暗い影を背負って智代がうなだれた。どうもトラウマに自分で触れてしまったらしい。
「と、智代?」
「どうせ私は女らしくないんだ……そうだ、春原ですら私を女とは認めてくれなかったんだから、朋也もいつかは私よりも女らしい女に魅かれて行ってしまうんだろう。きっとそうだ。いや、そうに違いない……」
ああ、また始まったよ。
「いい加減その妄想戦隊ハルシネーターやめた方がいいわよ?」
「そ、そうだな。うん、それよりも春原の話だったな」
「まあ、もういいけど」
「とどのつまりはあれを男として認めてあげよう、ということか」
「どうした岡崎?」
芳野が朋也に声をかけた。
「いや、何だかちょっと……智代が変なこと言った気がしたんで」
「ほう、そういうのがわかるとはな……愛だな」
「はいはい。あ、今そこ終わりますから気を付けてくださいね」
なぜだかよくわからないが、朋也は春原を殴りたくなった。
「まあ朋也に比べたら無論まだまだだが」
「あんたならそう言うと思ったけどさ……」
あたしはフォークでモンブランを崩しながら苦笑した。
「しかしそうすると、筋としては春原にもお礼をするべき、となるが」
全身が一瞬にして硬直した。
「ちょっとやだ、やめてよそんなの」
「ああ、すまなかった。実は自分で言ってて鳥肌が立ってしまった」
「お礼、ね……ねえ、書物ってさ、プレゼントに入るかな?」
「書物?そうだな。まあ、本にもよると思うが……ためになる本とかはアリだろうな」
「じゃあ、大丈夫」
さっき、とっておきの本を送っておいてあげたから。そのまま直激すれば、あの空っぽの頭の中にも有意義なものが詰まるしね。